単行本図書

子どもも兵士になった 沖縄・三中学徒隊の戦世

少年たちは、なぜ戦場にいたのだろうか。これは、80年前、ほんとうにあった物語である。

真鍋和子 著/多屋光孫

少年たちは、なぜ戦場にいたのだろうか。これは、80年前、ほんとうにあった物語である。

1944年9月、沖縄県名護市に独立混成第四四旅団の主力、第二歩兵隊が進軍した。この日を境に全沖縄県民、沖縄三中生全員の運命が大きく変わる。10月10日、アメリカ軍の大規模な攻撃が行われ、伊江島など大きな被害を受ける。沖縄県民の誰もが、ほんとうに戦争に巻き込まれたのだと実感したのだった。さらなるアメリカ軍の襲来にそなえて、兵力を増強しなければならない事態になったが、日本本土からの戦力の増強は困難で、沖縄内部での動員が強められていく。すでに全国での徴兵検査の年齢が19歳に引き下げられており、さらに防衛招集の規則が変えられ、戦闘のある地域では17歳以上の男子を兵士として召集できるようになった。これを受けて沖縄では、17歳から45歳までの男子が招集されて「防衛隊」が組織される。とくに兵力が不足する沖縄県北部地方では17・18歳の青年を中心に遊撃戦を想定した「護郷隊」が組織された。そのうえ、沖縄だけの特別な措置として14歳以上ならば、志願があれば兵士として召集できるようになったのだ。1945年1月、沖縄三中三年生全員が呼び出され、軍の要請により軍事教育が始まる。通信隊に入って、有線班・無線班・暗号班に分けられた三年生は空腹と重労働とたたかいながら訓練に励んだ。3月、沖縄全島の中学校・師範学校は学校ごとに鉄血勤皇隊を結成することが決められた。軍と連携して軍事訓練を行い、非常事態になったら防衛招集で軍に編入するという命令だ。三中鉄血勤皇隊のうち147人は八重岳の第二歩兵隊に、150人は多野岳の第一護郷隊二配属された。4月1日、アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始する。6月23日、牛島司令官が自決し、日本軍の組織的な戦闘が終わる日までの、沖縄県北部の山岳での学徒兵たちの戦世の日々。そして生き延びた学徒たちが戦で命を落とした学友たちの慰霊碑「三中学徒之碑」を建立し、平和の大切さを願う日々を描くノンフィクション作品。

  • 定価1,980円 (本体1,800円+税10%)
  • 初版:2025年4月25日
  • 判型:四六判/サイズ:12.7cm×18.8cm
  • 頁数:239頁
  • 小学5・6年~
  • ISBN:978-4-494-02089-8
  • NDC:916

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内容説明

1944年9月、沖縄県名護市に独立混成第四四旅団の主力、第二歩兵隊が進軍した。この日を境に全沖縄県民、沖縄三中生全員の運命が大きく変わる。10月10日、アメリカ軍の大規模な攻撃が行われ、伊江島など大きな被害を受ける。沖縄県民の誰もが、ほんとうに戦争に巻き込まれたのだと実感したのだった。さらなるアメリカ軍の襲来にそなえて、兵力を増強しなければならない事態になったが、日本本土からの戦力の増強は困難で、沖縄内部での動員が強められていく。すでに全国での徴兵検査の年齢が19歳に引き下げられており、さらに防衛招集の規則が変えられ、戦闘のある地域では17歳以上の男子を兵士として召集できるようになった。これを受けて沖縄では、17歳から45歳までの男子が招集されて「防衛隊」が組織される。とくに兵力が不足する沖縄県北部地方では17・18歳の青年を中心に遊撃戦を想定した「護郷隊」が組織された。そのうえ、沖縄だけの特別な措置として14歳以上ならば、志願があれば兵士として召集できるようになったのだ。1945年1月、沖縄三中三年生全員が呼び出され、軍の要請により軍事教育が始まる。通信隊に入って、有線班・無線班・暗号班に分けられた三年生は空腹と重労働とたたかいながら訓練に励んだ。3月、沖縄全島の中学校・師範学校は学校ごとに鉄血勤皇隊を結成することが決められた。軍と連携して軍事訓練を行い、非常事態になったら防衛招集で軍に編入するという命令だ。三中鉄血勤皇隊のうち147人は八重岳の第二歩兵隊に、150人は多野岳の第一護郷隊二配属された。4月1日、アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始する。6月23日、牛島司令官が自決し、日本軍の組織的な戦闘が終わる日までの、沖縄県北部の山岳での学徒兵たちの戦世の日々。そして生き延びた学徒たちが戦で命を落とした学友たちの慰霊碑「三中学徒之碑」を建立し、平和の大切さを願う日々を描くノンフィクション作品。

推薦のことば

ぬちどぅたから 〜少年兵と母〜 母のひろば731号 2025年4月15日発行
 1945年の沖縄戦では、少年たちまでが兵士として動員され、多くの戦死者を出しました。前年に防衛召集できる年齢が17歳まで引き下げられ、さらに沖縄での特例として、14歳での召集が可能とされます。そのうえで、米軍の襲来がせまった3月下旬、全島の師範学校・中学校・実業学校で、「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」「通信隊」が組織され、高等女学校の生徒は看護要員として軍隊に動員されました。全21校、あわせて2,000人を超える生徒が、満足な訓練もないまま、強大な米軍との戦闘の前面に立たされ、半数が命をおとすことになります。「御国のために散る覚悟です」と、教えられた型通りの言葉で自分を鼓舞しながら、南部の激戦地で負傷し歩けなくなったある生徒は、手榴弾で自決する直前、友人に向かって「母のところへ連れて行ってくれ」と懇願したといいます。彼らはまだ、お母さんが恋しい、少年だったのです。
 学徒兵の戦いは、北部地域でも展開されました。名護(なご)にあった第三中学校の生徒たちは、本部(もとぶ)半島の八重岳(やえだけ)に拠点をおく国頭(くにがみ)支隊の配下で戦い、多くの犠牲者を出しました。通信隊員だった3年生の金城勇(きんじょういさむ)君は、銃弾で両足と右腕に瀕死の重傷を負いながら、谷間の野戦病院にたどり着きますが、自決用の手榴弾を渡されたまま、撤退する軍隊に置き去りにされてしまいました。自由の利く左腕で必死に命をつなぎ、米軍による掃討の際も、避難民に背負われて脱出、懸命に生き延びようとします。奇跡ともいえる頑張りを支えたのは、何だったのでしょう。最期に一目だけでもお母さんに会いたい。その一心だったのではないでしょうか。その望みは叶えられぬまま、勇君はついに息をひきとりました。
 30年後、生き残ったかつての仲間たちの手で、八重岳山中に「三中学徒之碑(さんちゅうがくとのひ)」が建てられます。慰霊祭に参加した勇君の母、金城ヨシ子さんは、碑の前で自作の琉歌(りゅうか)を詠みました。

  御代(みよ)や うち変(かわ)て 豊か世(ゆ)になりば 思(うむ)みまさるしゆる 親(うや)ぬ心(くくる)
  うらむ あぬいくさ 又と有りてならぬ あたらうまんちゅぬ 命(ぬち)捨(し)てて

(意味:時代が変わり豊かな世になっても、息子を失った悲しみがつのる、それが親の心です。恨めしいのはたくさんの命が失われてしまったあの戦、二度とおこしてはなりません。)ヨシ子さんは、その後も「ぬちどぅたから」と題して、いくつもの琉歌を詠みました。「命こそ宝」という言葉は、過酷な戦争を経て、沖縄の人々の心で育まれ、深められた思想です。我が子を失った悔しさの体験を超えて、命を粗末にする戦争そのものに抗い、平和を希求するヨシ子さんの歌。
すべての母親に繋がるこの思いを、どう受け継いでいくのかが、問われていると思います。
真鍋和子/児童文学作家